魚の価値は一体何で決まるのか?
そんなことをふと思った日がありました。
そもそも、魚の価値とは何なのか?
市場価値でいえば、値段が高い魚ほど価値がある。
しかし、釣り人が狙う魚はそんな魚ばかりではありません。
北海道のルアーフィッシングで人気のターゲットであるアメマスは、市場価値なんてゼロに等しく、漁で水揚げされても捨てられるだけの存在。
けれど、釣り人にとっては非常に価値のある魚なわけです。
つまり、魚の価値というのは、どう考えたって人間が決めている。
けれど、人間にも価値観の違いがあり、それぞれの市場があるため、一概に価値というのは決定できないわけです。
それは魚のサイズにせよ、希少性にせよ、見た目の美しさにせよ、ファイトの強烈さにせよ。
では、そんな魚の価値を決めている自分はどうなのか?
自分の価値は一体だれが決めるのか?
ていうかね?
魚の価値は人間が決めているのに、人間の価値は誰が決めているのか?
ああ、そういえば意識の高い人は、きっとこんなことをいうんでしょう。
「自分の価値は、自分で決めればいい」と
というわけで、自分の価値を自分で決めようとしたら、その前に誰かに半額シールを頭に張られていたαトラウトです。もうそんな時間なの?
人間の人生ってのは常に引き算ですよ。
生まれた時が最も価値が高いけど、30超えればポツポツと値引きシールを張られていく。
幾ら自分で価値を決めようが、気が付けば社会という名のスーパーのおばちゃんがシールを張ってくんですよ、本当にふざけてます。
ただし、僕の場合はですけど
この半額シール、生まれてから5秒くらいで付けられた気がする。
なんだ不良品かよって勢いで張られた気がしないでもない
てな位に自己肯定能力が欠如している僕は、魚でいったらウグイパイセンと同レベル。
いや、むしろパイセン以下。それくらい社会的に価値など無い人間なのです。
じゃぁ、もしかして魚も自己卑下とかするのか?
もしかして、なんか自分なんて要らない魚だなとか思ってたりするのか?
なんてことを考えた渓流での釣りでしたね
渇水ぎみの渓流を歩き通した

というわけで、自分に価値など無いと思っている僕は現実から逃げるため、この日は朝の数時間を渓流で過ごすことにしました。
そもそも現実逃避のために釣りを続ける僕ですが、しょっちゅう嫌なことがあるので、朝の釣りだけが唯一清らかな時間。
というか、そういう風にずっと過ごしてきたな
と思いながら、スプーンを投げる。
この日は6月らしい気温で、とっくに蝉も五月蠅い状態。
けれど、水位はずいぶんと低くなっています。
その原因は降雪量の少なさ
そして降水量の減少
いつもだったらウェーディングしないと入れない場所が、サンダルで入れてしまうレベルになっている。
こりゃぁ、魚達が居場所がないだろうな
と思い下流側へと下っていきました。
そもそも人間の価値というのは他人が大抵決めてくるもの
例えば僕が「ジミヘンと2pacと山下達郎を合わせたうえ、キューブリックとスピルバークをふりかけ、そいつを食うマーティンスコセッシだ」
と考えていたとしましょう。
いや考えてません、そんな妄想は一度も抱いたことがありません。
例えばの話ですよ?釣りに行く前に僕が考えた最高の映画のシナリオを思いつき「これならカンヌとアカデミー同時に全部門制覇確定だな」とか思ったとしましょう。いや思ったんですけど。でも、ただの妄想ですからね。本気じゃないですからね。
しかし、仮に本気で考えていたとしても、僕の価値は結局は他人が決定するんですよ。
そんな妄想を抱いていようが、カンヌには審査委員がいる。アカデミー賞は審査委員+賄賂を渡さないといけない。しかも差別される黒人と、強い女性を出さないと絶対にとれない。それがララランドの悲劇。あの時は悔しかった。くそ、今思い返しても腹立つ。エマ・ストーンのリアクションが忘れられない。
まぁとにかく、つまり、価値は他人他人が決める。
これはこの世の絶対的な原則であり、価値は自分で決めるなんて信じるほうがどうかしてる。いくら最高の映画だろうか、人々が映画に差別問題を求めているなら、誰も見てないクソみたいな人種差別映画に作品賞を取らして、最高のミュージカルなんてクソくらえってわけだ。ほんとクソだよこの世の中。
しかもこいつは、当たり前のように世の中に起きている。
誰かが最高といったって、その他100人が最低といったら最低。
コメント
後悔型って奴っすねわかります。
話し代わってまたライギョが見たいです。
まさに後悔型ですねザブトン10枚差し上げたい。
いやもうライギョ、釣りにいきます。
皆様のご協力もありタックルそろいつつあるので、ドカーンと釣ってきたいです。