前回は釣れない時にいう「坊主」について深堀りしてみましたが、その他にもいろんな言い方があるのがわかりました。
しかし、やっぱり新しい釣りの言い訳を生み出したいなと思い、今回はカリスマの釣れない言い訳について書き記しておこうと思います。
というのも、釣れない時にいう「坊主」というのは、釣れないという言葉をそもそも使いたくないがゆえに使う言葉だったりします。
しかし、カリスマであれば、そもそも釣れないという言葉すらカッコよくなる。ハゲだのデコだの坊主だのという下品な言葉をつかわずに「釣れなかった」という事実をいかに説明するかを考えたうえで、さらに釣れない時に言いやすいカリスマ力あふれる言葉を考えていこうと思います。
カリスマ力の高い釣れない時のセリフ
ではまずカリスマが言いそうな釣れない時のセリフを考えてみましょう。
カリスマはいつでもカッコイイ。なので、釣れない時に「はい釣れませんでした」なんてストレートな言葉を投げることは絶対にしない。なにかしらのカッコイイ名言を生み出してくれるのがカリスマなのです。
では、まずはカリスマ力があるセリフをいくつか考えてみて、どうしてそれがカリスマっぽいのかを分解しつつ、「坊主だった」や「ハゲ散らかした」などの貧しき民の言葉に美しき革命をもたらせるか挑戦してみようと思います。
「まぁ俺が釣ったらバランス狂うよね、水」
これは“釣れなかった”を“釣ってはいけない存在だから”という上位概念で置き換えた名セリフ。釣らない理由がスケールでかすぎるのがポイント。さらに自然への気配り、それも魚類や生態系ではなく、そもそも「水」への配慮というスケールのデカさと繊細さがカリスマである。
「釣りってアートなんだよね、だから今日って釣れてるわけだ、アイディア」
今日の釣果ゼロを“準備期間”とすることで、次回に向けた伏線演出。釣りを創作活動として捉えるナルシスティックな美意識がまさにカリスマ。
「魚もついに気がついたわけだ、ルアーの先にいる“神”に」
これは自分を“釣らせてもらえない存在”に昇華している一言。釣れないことがむしろプレミアムな現象になっている。魚との関係性においても自分が上。
「釣れないっていうか、魚が気後れしてる、オレに」
釣りの目的を「釣る」ではなく「心を奪う」にシフトチェンジ。つまり実質勝利。こういう視点の切り替えがカリスマ。
「というか、オレが釣ったら海終わっちゃうけど・・・行政はダイジョブ?」
ここまで来ると自然災害レベルの自己評価。釣果ゼロとは人類のための災害回避として意味があることにしてしまう豪腕さ。むしろ逆に釣って大丈夫か関係各所に確認を取り、行政からのGOサインが出てはじめて釣れる。それがカリスマというものです。
「あーわからないんだコレが・・・・やっぱステージ違うかぁ」
これは魚に対しても“ステージが違う”と突き放す表現。釣れない=格差というロジックがナルシスティックに響きます。
魚を釣るっていう時点で負けてる。オレは釣るんじゃなくて、今こっちに来させてる
もはや釣れないなどという話自体カリスマにとっては侮辱。釣るために努力をすることはカリスマではない、カリスマは呼び寄せる、己の魅力ひとつで魚を寄せるのである
おれはルアーを前に投げるだけ、魚はオレの後に付いてきてる
ルアーを投げるということは、そこに魚がいるからではない。そこに何もないからこそルアーを投げ、己の道を切り開く。そして、魚はただ黙ってオレのうしろについてくる。これぞカリスマである。
釣れないっていうオレを見れたら、もうご利益しかないでしょ
釣れないという自分を魅せたとしたら、それはもはや神事と同じく。カリスマが釣れないということは奇跡であり、それは神々しく光り輝いているのだから、もはや拝むほかにないのです。
他の男が釣ったメーターオーバーより、一匹も釣れないオレの夢のほうがデカいわけ
魚の大きさで競い合う矮小かつ小賢しい釣の世界でただ一人「夢のデカさ」を持ち込むのがカリスマ。デカく生きろ、魚よりも己のデカさこそが最も大事なのです。
「で、俺が釣ると伝説になるんだよね、だから今日がなにかわかる?・・・・そう、”神話”の”プロローグ”」
カリスマ的言い訳の中でも最高峰。“今日は伝説の始まり”と言い切ることで、失敗すら始まりに変えるマジック。
こうしたセリフは、釣りの失敗をすべて自己肯定と表現力で塗り替える力があります。もはや釣れなかったことが、芸術的体験に変わってしまうのです。
カリスマが釣れない時の短いワード
言い訳としてセリフを並べるのではなく、さらにコンパクトで使いやすい“短い一言”を考えてみました。どれもカリスマ風でありながら、ナルシズムとポエティックさを兼ね備えたフレーズとして気軽に使えるように改良を試みます。
永遠(トワ)った ──人は0をゼロと読む、しかし、カリスマは0を永遠(とわ)と読む。それが一般人とカリスマの違い。そう、なにも釣れないという0を美として見る。そして永遠という美しさをポエティックに語る姿勢。ゼロは敗北じゃない、それは無限の美なのである。
夢見せた ──まるで夢のように何も釣れなかった一日を、純白な一言でラッピング。儚さも魅力に。そしてただ己が夢を見るではない、カリスマとは人々に夢を見せる能力を持つ。
未景だなこれ ──釣果ゼロを「まだ見ぬ景色」として語ることで、未完成の芸術として提示。未来を想起させるワード。
孤高だね ──釣れないことすら孤高の証。むしろ孤高は動詞。群れずに結果を出さない、そのスタイルがカリスマ。おのれの孤高っぷりを改めて痛感したというカリスマ独特の哀愁が漂っています。
表現しすぎた ──自分の釣りがアーティスティックすぎて、魚がついてこられなかったという超絶ナルシズム。ごめん、みんなの低いレベルに合わせられなくてという反省も込められています。
詩(ウタ)ちゃった ──釣果ゼロも詩になる。それが表現者の在り方というメッセージ。釣れないことを詩にできるかどうか、それがカリスマ力の差なのだ
嫉妬されたなー ──魚たちがあまりの存在感にひるんだという、カリスマならではの妄想力あふれる一言。このよの全ては自分に嫉妬しているという高い美意識こそが釣れないことを美しく表現できるのである。
緊張させちゃった──魚が自分のオーラにビビって寄ってこなかったという、まさかの魚の心理側からの視点。逆転の発想。
記念日増えたね ──釣れなかった日の記憶を「オレの記念日」として刻んでしまう。すべてを自己肯定に変える魔法のワード。そしてその記念日は自分のためではなく、全ての人類のためのサービスであるという名言。カリスマが釣れない日が増えるほど、国民の休日は増えるということである。
ファンが居た ──釣り場にファン(魚)が多すぎて、誰も手を出せなかったという、奇跡のモテ理論。
アートだね ──釣れないことをアートと断言。結果よりも“過程の美”を全面に出した一言。
ステージ違うかぁ ──そもそも魚と自分のレベルが違いすぎた、という言い訳に見せかけたマウント型ナルシズム。むしろ自分のほうが下のステージではないのか?なんて疑いはカリスマはもたない、あっとうてきなカリスマ力を持つ以上、確実に上にいるのは釣れなかったものである。
これがプロローグ── 序章、それは全てのはじまり。つねにそこは伝説のはじまりという意識こそカリスマをカリスマたらしめる所以。カリスマに失敗などはない、あるのは常にプロローグである。
神話 ──釣れなかった今日は、神話のはじまり。つまり伝説のプロローグというポジティブ変換力の極み。今日は釣れなかったでも、今日は坊主でも、今日はハゲ散らかしたでもない。
今日は”神話”
釣れないという事実をむしろ神話級のポジティブな出来事として扱っており、まさに新たな名言候補です。
釣れない今日は俺の神話でしかない
というわけで、今回一番気に入ったのは「今日は神話」ですね。
坊主ではなく神話。釣れない時は「今日は神話でした」と言うと、なんかカッコイイし、自信に満ちあふれていて、ポジティブな感じになっていいですね。
そしてやはり品がありますからね。ハゲとかデコとか下品な言葉を使わないのがカリスマですから。
みなさんもカリスマな釣りの言い訳を作り上げ、ゼロという神話のプロローグを紡いでください。
そして気がつくんですよ、釣るんじゃなくて、“創る側”だってことにね。
さぁーて、世界変えちゃおっかー?

