白人美女になったエリーと喋る今、僕はこの女が本当に魚だったのか忘れそうになっていた。
「ここはラボなのよ、名前はテシオ・ラボ。私の研究室よ」
そう説明を受けつつ、真っ白な部屋の隅で、これまた真っ白な球体をいじり回しながら彼女は語る。その顔立ちは誰かに似ている。例えばハリウッドスター。誰だか思い出そうと頭をひねる前に、すぐに名前がでてきた。まるでナタリー・ポートマン。髪の色が金髪だが、美人なのに幼さの残る顔立ちはまさにそっくりだ。
「研究室って、それじゃぁ、あんたは学者なのか?」
僕が訪ねた理由には当然意味がある。この女は謎の機械をいじりまわし、ついでに僕の脳みそをOSでも入れ替えるかのように改造。ウィンドウズから異世界のLinuxにされたあげく、変なパッケージまでインストールされたのだ。いくら魚人だってやり過ぎだ。まともじゃない。
「学者よ、こう見えても」
エリーは笑って、長い金髪をかき揚げる。随分とセクシーな動作だが、見えた耳元の下が嫌に大きい。というか、割れているし、中から赤いものが見えた。
「よせよせ、もういいって、マジで気持ちわるいから」
「なにそれ?」
「エラだろ?いやいやなんでエラが見えるんだよ?」
「ああ、これね」と、エリーは自分のエラもとを指先で弾いてみせた。
「どう?セクシーに見えてる?」
そんなわけない。思わず眉が動いたのがわかる。それじゃぁ貧乳なのに最高にエロかったナタリー・ポートマンも台無し。そのとんでもないエラ張りのせいでキャメロン・ディアスみたいで、まぁ最低だ。
「それがなけりゃナタリーポートマンに似てるよ」
「え?それって?」
「エラだよ、その顔の横の」
「ああ」と、
つい口に出てしまった言葉にエリーが反応する。そういえば名前も似ている。ナタリーにエリー。わざとそういうビジュアル設定にしたのかと思ったが、彼女はあの名女優を知らないらしい。
この世界じゃ最新のデザインだという楕円形の奇妙な椅子に座る。どうやら魚人の胸鰭をイメージしているのでとても座りやすいというのだが、そもそも魚人の胸鰭が気持ち良いわけもなく、尻の部分にある変な突起から尾骶骨を逃がすので必死だった。
「えーと、それで」
と、尻をもぞもぞさせている僕に、金髪のナタリーポートマンは笑顔で話しかける。顔つきはまるで彼女が20代の頃にそっくりで、クローサーに出ていたころに似てる。
「私ソックリのその女優っていうのはそんなに有名なの?」
魚の背びれ型の椅子に座りながら、僕は彼女に映画について説明した。この美人魚博士はどうやら映画については知らない。他のことは良く知っているはずなのに、なぜかスターウォーズエピソード2に出てくる彼女については全く知らないなんて、わざわざ異世界にネットを繋げている意味の半分は消えたも同然だ。
そこで、僕はナタリーポートマンについて簡単に説明することにした。
「ナタリーポートマンってのは、殺し屋の弟子。で悪徳警官撃ち殺したあと宇宙を救うお姫様になる。その後バレーダンサーになって、世界最高のベッドオナニーをする女性さ」
「うそ・・・凄い」
「そのオナーニをした後はパっとしない恋愛したり、パッとしない宇宙人になったり色々あったが、とにかくすごい美女だ」
簡単とはいえど、僕はひたすら褒めちぎっていた。目の前のエリーは嬉しそうでも、僕はちっともうれしくはない。別に彼女をほめていたわけじゃないからだ。僕は彼女を通して、本物のナタリーポートマンに思いをぶつけていたに近い。
エリーはヤケにはしゃいでいたが、その瞬間だけ妙に子供っぽい。それはもうレオンのナタリーポートマンみたいで。
「すごいわ!ほんとうに?すごいわ!私映画に出てたの!」
で、と付け加え、まるで子供のようにキラキラとした目で僕の顔を除き込む。結構近い。ここまでくると魚だってことは忘れそうになる。
「で、映画って何?」
椅子からズリおちそうになった。もちろんわざとじゃない、驚いた拍子に、例の謎の突起からお尻が滑ったのだ。
「映画を、知らないのか?」
「それってユーチューブと何が違うの?」
ナタリーポートマンどころじゃない。どうやら彼女は映画そのものを知らないらしい。だがユーチューブを魚人が知っているっていうのも変だが。
「まさか、映画を知らないのか?」
「いいえ、私は特に見てないわ」
「でもユーチューブは知ってるんだろ?この世界はネットが繋がってるんだから」
「そうよ、特に魚系のを見ているわ」
「え?」
「だから魚系の動画、釣り動画だってみるわよ。好きなチャンネルもあるわよ?登録しているのも多いけど、だいたい釣り動画とかね。ああ、釣りよかでしょうとか良く見るわよ」
マジかよ。
この魚人、釣りよかを見てるのか。
「あれを見て、釣り人について勉強しているの。だから映画っていうと、あんまり見ないわね」
「えーと、ちなみに釣りヨカは僕も見ているんだけど・・・」
と、おずおずと話題を切り出してみる。まさかここで共通の話題が見つかってしまうとは。
「本当?あれ凄い勉強になるわ」
「ああ本当?で、ちなみに、どこが?」
「もちろん魚を釣る時よ、どんなところをポイントにしていて、どんなルアーをつけて、どんなタックルを付けているのか、釣りをする人間がどんな人間で、何を考えているのかとか、色々ね」
「なるほど、え、それってもしかして」
「もちろん人間を捕まえるためよ?だってそうしなきゃ、彼らを探すのに手間取るじゃない、非効率よ」
なんってことだ。つまり、僕はエリーが釣りよかを見続けた結果、僕が出没しそうなポイントを逆探知されて捕まったということか。
「でも、こっちでは釣りヨカでしょうは不人気よ、有名だけど、私みたいに釣り人の研究目的で見るか、ただバッドボタンを押したいって理由で見るかのどっちかね」
「まじで?」
「本当よ、あの動画のバッドボタンの8割は魚人が押してるわ、あとはコメントとかで嫌がらせしたりね」
釣りヨカのヨーライたちが毎回アンチコメを見る旅に苦々しい思いをしているとしても、その相手が魚人だと知ったらどう思うだろうか?想像するに、まずユーチューバーをやめるだろう。こんな恐ろしいネットストーカーへの対処法は存在しない。
「あのチャンネルに限った話じゃないけど、こっちでは釣りユーチュバーは大抵嫌われ者よ、釣り人自体がヘイトの対象だからね、特に第三世代にとっては」
「第三世代って?」
「私たちには世代があるよの、第一、第二、第三、それからファーストって言われるのもいるけど」
「ちょ、ちょっとまて、世代っていうのは?」
「ああごめんなさい、ちょっと急ぎ過ぎたわね、それに貴方には依頼のほうもまだだし」
依頼というのは、例の元探偵の僕にようがあるというやつ。
ついでにこの世界を救えとかいう、奇々怪々な指令というやつ。
どっちにしろ受けたくはない。
「まず言っておくが、僕はあんたの依頼を受ける気はない。それにもう探偵じゃないし、この世界で探偵だった僕が役にたつとは思えない」
「そんなことないわ、というか、貴方しかいないの」
「はぁ?」
「探偵っていうのは、色々なトラブルを解決してくれる仕事なんでしょ?私色々と見たのよ」
どうやら色々と誤解しているらしい。
探偵の仕事はそんなものじゃない。
人助け?その逆だろ。
「見たって、何を?」
僕は苦々しい思いを隠しもせず訪ねた。エリーは相変わらず僕の態度を気にも留めず、天井を睨み、マシュマロのように膨らませた頬を指先で叩く。
「えーとねぇ、まずネットフィリックスでシャーロックをシーズン3まで見たわ、あとシーズン4もきているけど、色々忙しくってまだ」
ネットフィリックスって、まさかこの魚人は──と思ってのけぞった瞬間、謎の突起が僕の尾てい骨に思いきりヒットして「おふぅ!」と、思わず間抜けな悲鳴を上げてしまった。
「じっじゃぁ、あんたは、洋物連続ドラマを見て、僕をつれてきたってわけか?」
尻を少し浮かしつつ訪ねると、エリーはナタリーポートマンの天使の笑顔で答える。
「あれってそういわれているの?私は良くわからないけど、ネットフィリックスはみんな見てるわ」
驚いた。ユーチューブだけじゃない、こいつらはネットフィリックスを見ているのだ。
「それにシャーロックだけじゃないわ。気になって色々と探偵について調べたの。だから探偵はバーにいるとか、ロング・グッドバイとか、ドラゴンタトゥーの女とか」
「ガイリッチー版のシャーロック・ホームズとか?」
「そうそうそっちも見たわ、私的にはやっぱりドラマ版の方が好きなんだけど、あっちはあっちで凄いカッコ良くて」
この魚人はいったい何を言っているんだ。
シャーロックの劇場版とドラマ版の話を真剣に語るエリーを見ながら僕は混乱を通り越し、すでにうなだれていた。
「じゃぁやっぱり映画を見ているじゃないか」
「映画?あれって映画っていうの?」
おまけにこれだ。
ネットフィリックスの弊害は確かに映画を映画らしからぬ何かに変えたことだ。スクリーンで映画を見る人間が減り、映画の価値は極端に下がり薄利多売状態。だが、まさかその影響がこの魚人の世界が最も受けていたとは。
「ともかく、それが映画だ。1話完結じゃなくて、2時間位で一本のストーリーを描くやつ」
「ああそうなの、なるほどね、それが映画なのね、よくわからないわ」
僕だってこのご時世、映画の定義なんてよくわからなくなっている。
だがそれはどうでもいい。
重要なのは、こいつがなぜ僕をこの世界に連れてきたのかということだ。それがわからない限り、僕はここから出られない気がする。
「ともかく映画はもういい、それについては後で教えるし、ネットフィリックスのおすすめ映画や連ドラならいつでも聞いてもらっていい、だが探偵はダメだ」
「どうして?私は探偵こそがこのせかいを救うのに最適なファクターだと思ったのに」
「だからなんでそう思ったんだ?まさかシャーロックみたいなことを期待してるんじゃないだろうな?」
「まぁ近いわね、だいたいのところは」
どうやらこの魚人はマジで言っている。
だが、現実の探偵はそんなものじゃない。いや、それどころか何かを救えるような仕事じゃない。それに、僕自身探偵だったのだから、これだけははっきりと言える。この世には犯罪捜査の天才でヤク中の探偵はいない。いるのはただのヤク中と、天才の犯罪者、それとただの探偵だ。
そしてもう一つ。
この仕事をやっている人間の大半は、そんなことに興味が無い。
「一つ言っておくが、探偵は世界どころか、誰も救えない」
僕ははっきりと伝えることにした。
こういった話は以前から慣れている。なにも魚人に限った話じゃない、同じ人間だって、時たまその手の勘違いをする人間がいるからだ。期待を持たせるのは良くないし、この場合、そのせいでとんでもない目に合う。
「どうして?」
首をかしげるエリーに、僕はできるだけわかりやすく説明しようと心掛けた。
「いいか?映画やドラマで知ったんなら仕方ないが、探偵っていうのはそういう生き物じゃないんだよ。浮気調査をしたりして、しょうもないトラブルの調査をして大金巻き上げてるるだけで、そもそもビジネスなんだ。慈善事業じゃない。金が無ければ何の仕事もしないし、やっているのはしょうもない仕事ばかりだ。で、ここからが重要だが探偵はトラブルの解決なんかしない。やるのは調査だ。調べること、それを報告すること。それ以外の仕事はないんだよ、これについては平成19年に施工された」
「探偵業法、正式名称は探偵の業務の適正化に関する法律」
「そう、そこに探偵の仕事についての定義がある、だから探偵は救うなんてことは・・・・」
今、この女はなんて言った?
「それくらい知ってるわ、ちなみに定義は『尾行、張り込みなどに類似する調査により特定の人物、もしくは組織を調査し、その調査結果を報告すること』でしょ?」
驚いたことに、エリーは適格に探偵の定義について答えた。映画のことは知らなくても、やはり彼女は人間について、驚くほどの知識がある。
「ネットフィリックスでドラマだけ見てると思った?私は研究者よ、もちろん他にも調べてる。だから探偵についても色々と調べたわ、ウィキペディアから論文、探偵事務所のホームページ、ブログから2チャンネル、torの闇サイトまで、ありとあらゆるルートからね。でも、現実の探偵をこの目で見たことは無かった。だって、私たちが接触できる人間は川沿いに居る人だけ。それも大抵が釣り人だから」
こいつ、torまでチェックしていのか。こいつらはいったいどこまでネットを使えるんだ?
「だから僕なのか?」
「それもあるわ、この付近の釣り人で探偵か、もしくは元探偵という条件で探しまわったけど、結局貴方以外見つからなかった」
なるほど、そういことか。
どうやらこいつらに人間との接点は殆どない。
あるのは川岸で、釣り人を攫うくらいで、それ以外の人間世界に関する情報はすべてインターネットで確認しているのだ。
しかし、探し回ったというのが気になる。なぜ僕が探偵だとわかったのかもだ。確かに釣りをしている探偵なんて、僕が知る限り僕と、あと一人位しか居ない。あの陰気な業界はそもそもアウトドアな趣味を持つ人間なんてごく少数だし、中でも釣りのようなものは不人気だ。
考えていると、エリーはふと手を顔の前にかざし、2度左右に振る。すると突然空中に半透明の四角形が出現したかと思うと、そこにスクリプトコードが流れはじめる。
「ナノエレメントよ、空気中に散布されてる粒子が生体反応に応じて形を作って、こうしてビジョンを生むわけ」
一瞬で思考を止められ、呆気に取られている僕を横目に見ながら、エリーは独り言のように説明した。何かやることがあるらしい。走りまくるコードの正体は不明だったがサーバーに接続された数値を叩いたあと、すぐさま画面が切り替わり、空中に見たことのある映像が浮かんだ。
意味不明なイラストであらわされた文字と、直下のシンプルな入力フォーム。赤と黄色と緑のアイコン。間違いない、Googlebrowser──かと思いきや、googleを示す例のイラストが、すべて魚になっている。それだけじゃない。良く見るとgoogleじゃなく、ghoulとなっていた。
「グール?グーグルじゃないのか?」
「いいえ、それはあちら用。こっちではそもそも出力できる端末がないからね」
「まさか、OSごと自前で作ってんのか?」
「そう、開発まで2年位かしら」
わずか2年で、こんなバカげたものを。しかも日本語ベースの機械言語。理解できるわけがない、どうやって互換性を生んでいるのかも。
「ともかく、こんな感じで探偵については調査済みよ」
そういって指先を弾くゆに動かすと、半透明のブラウザがレイヤー状に分離し、エリーの背後に展開していく。そこにはありとあらゆるフォントの、ありとあらゆるタグ付けを施され、ありとあらゆるスタイルシートの装飾が程こされた「探偵」の文字があった。
「探偵は調べるプロ。それも合法、非合法を問わずに」
「調べが足りないんじゃないか博士?探偵は別に法律を冒してはいないよ」
「いいえ、それは建前よね。本当のところは、誰だって何かしらの法律を冒していた。特に貴方は」
「なに言ってんだよエリー、ちっともわかっちゃいないな」
そう言って作り笑いを浮かべてみたが、本当は脇の下から汗が垂れていた。エリーはいったいどこまで知っているのか疑問だったが、かなりまずいところまで調べているようだと、エリーの左斜め上に浮かぶブラウザを視界の隅で確認するが、間違いない。エトウ探偵事務所のウェブサイト。彼女は、僕が働いていた探偵委事務所を見ている。
「そんな貴方だから依頼したいのよ、この魚人の世界と、あなたの住む人間界を調べられるのは、人間だけなんだから」
つまり、僕はこの世界だけでなく、人間の世界でも仕事をしろってことなのか。
「だから簡便してくれって、ネットフィリックスとネットサーフィンで何が知れるってんだよ、探偵なんてもん、誰だってその正体なんか知らないんだ」
「貴方が働いていたのは、この探偵事務所でしょ?」
案の定、エリーが指をふると、僕が働いた事務所のサイトが僕の目の前に現れた。僕が前に見た時とデザインを変えたのか、トップページにはいつの間にか広告塔になった俳優の笑顔と「平穏な生活を貴方のために」というキャッチフレーズがついている。
「だからなんだよ」
僕が精一杯のウソをはいたが、エリーはまだ笑顔をくずさない。
「この事務所の業績は今や急上昇中。新規事業所を増やしてハワイ支社まで作ったうえ、調査員数は100名を超えつつある」
エリーは会社概要を表示し、あらにストリートビューから会社のビルまで表した。
「事務所も移転して自社ビルに変わって、そうとうもうけてるわね」
「それが何だよ、僕がいた会社が成長してたら僕のせいだっていうのか?」
「そうかしら?で、その探偵事務所を辞めたのは今から4年前、それから今は在宅ではじめたフリーのweb制作で食いつないでいるけど、相手は探偵事務所が多いわね、で、調査をやめてからは釣りをしながら妻とつつましやかな貧乏暮らしを継続中・・・けどそうじゃないでしょ?本当の貴方は」
「本当もなにも、だからなんだよ」
「違法調査」
やっぱりきた。
僕はできるだけ目を動かさないよう、エリーを見据えた。こっからはじまる本題は、どう考えたって僕が不利になるからだ。
「確か14歳の頃よね」
エリーの指先がクルリと中で円を描くと、空中に浮かんでいたブラウザは全て消え、僕の前に新たな映像が映し出された。PDF化された古い書類。2000年。長野県教育委員会の協議事案。
「あなたの通っていた中学校のサーバーに侵入。職員室中のPCをウイルスに感染させた後、視聴覚室でPCの授業中にリモートコントロールを勝手に解除。海外のポルノサイトをすべてのパソコンに表示した」
思い出したくもない書類が、まだPDFデータで残ってたとは。
デジタルデータ化で失われた書類のほうが多いっていうのに、僕の黒歴史だけはしっかりと残している。
「これによると、貴方のおかげで長野県のPC教育が見直されたみたいね。莫大な費用がかかってるわよ」
知っている。この書類を見せられたのも2度目だし、別に見たくも無かった。
「ふざけてやったし、大半の人はそう思うかもしれない。でも、激しい怒りを感じるわね、生物としての怒り。不満だらけで、何一つみたされてない飢えた人間の子供の怒りを」
空中に浮かんだブラウザをエリーの指先がなぞる。微かな光と共に文字が動き、文章がスクロールされ、文末へとたどり着く。
「あなたの通っていた中学校への別の指示がある。貴方に対する教育方針として、今後一切PCに触らせないということと、警察へは通報せずに内々に処理されたのね」
「そうだな」
確かに、内々に処理された。
だけど、今でも思う。
あれはやり過ぎた。
僕はそれから卒業する前一度もPCに触らせてもらえなかったのだ。
「あなたがハッキングを覚えたのは?」
僕は答えず、変わりに言い返してやった。
「あんたもハッキングを覚えたのは?文部省のサーバーに侵入できるようになったのはいつ?」
エリーは口元をとがらせ、困ったように笑った。
「ごめんなさい、嫌な過去ばかりね」
「わかってるなら聞くなよ」
僕はそれだけ答えて、おもいきり息を吸った。呼吸が上手くいかなくなっている。だめだ、違うことを考えろ。例えばこいつらは、どうやって呼吸しているんだ?ここには確かに空気があるが、こいつらにはエラがある。だから空気はエラから吸うのか?まるで肺魚みたいに?そうだ、昔雷魚を釣った時のことを思いだせ。あいつらはどうやって息をしていた?くそ、だめだ。だからなんだってんだ畜生。
そんな僕を見ながら、ナタリーポートマンの笑顔でエリーが笑う。
それもまたくやしいけれど、腹が立つ。
ちなみに、ナタリーポートマンファンといっても、ネットフィリックスで侵略してきた宇宙人と戦っていた頃からじゃない。あの偉大なダメ人間製造サービスが生み出され、それにハマりはじめるよりずっと前、ビデオテープで映画を録画していた子供の頃からの話だ。
僕が子供の頃は、いわゆる典型的なイジメられっ子というやつだ。
理由は今ではよくわかるから、イジメられるのは仕方ない。
どんな不幸だって、自分以外の誰も生めやしない。言い訳はいずれムダだと誰でも悟るが、僕はそれが早かった。腹が立つほど。
その頃は学校からの帰り道にいつもイジメられていた。長野県の片田舎の農道を歩きながら、駄菓子を食べる回数よりも、犯笑いで殴られ、舐めた血の味のほうが良く覚えていて、その日も運悪く相手が投げた石が当たり、泣きながら家に戻った夕方、僕はどうして自分がこんな目に会うのか考えずにはいられなかったが、すぐに答えにいきつく。
僕がイジメられていた原因は、主に自分の性格。
当時の僕は、友達に何を言われようが怒りはしなかった。感情を表に出すのがひどく苦手だった。しかもコミュニケーションが苦手で、無口かと思ったら、喋りだせば壊れた蛇口みたいに言葉が溢れる。おまけに人のことばかりを見ているので、嫌な所をやたらと指摘する。そんな最悪の子供が目の前にいたら、そりゃイジメたくもなる。
さらに親は貧乏ときたら?もう逃げ道なんかないさ。2000年初頭。バブルがはじけて事業に失敗したうちの家には「粗大ごみ」のシールの張った家具があり、その上に僕はビックリマンシールを張って隠していたし、誕生日に出てくるステーキは全部スーパーの安売り豚ブロックを切ったもので、翌日カレーライスの中に入って出てくるのも知っていた。
けど、文句は言わなかった。
カレーだって美味かった。もちろん偽物のステーキだって。
それに、いじめられていても、それは親にも言っていない。
恥ずかしかったのもあったが、そもそも親に言っても無駄なのはわかってた。親の借金は僕よりも酷かったし、当時から同情しかない。
僕が今住んでいる家よりもはるかにボロい借家に戻ってきて、玄関の板の間を踏んで茶の間に戻っても、そこに両親はいない。母親は近所のスーパーで時給でパート。町工場の社長だった親父は自己破産後、ツテでトラック運転手になっていた。けれど、きっと自分の会社が無くなって自暴自棄になったんだろう。それから家に戻らなくなり、現実から逃げるためにパチンコ屋に通っていたというが、それも本当かはわからない。なんせあいつは、僕が高校生になることには、浮気相手と家を出て行いったからだ。
だからあの夜も僕は一人ぼっちだった。冷蔵庫にあった母親が持ち帰った賞味期限切れの弁当をほうばったあと、静かな今の薄暗い天井を見上げて、壁の時計を見て、すぐに布団の中に入ることにした。
けど、暗い布団の中では眠れなかった。頭の中では、明日もまた奴らにイジメられるんじゃないかと怯え、高笑いの幻聴すら聞こえていた。鼻につっこんだティッシュから血があふれてとまらなかった。僕は寝るのを諦め、親父が事業に失敗した時に持ち出して残したパソコンを触るか迷ったが、結局家にあったオンボロのブラウン管のスイッチを入れた。
なぜなら、その日は金曜の夜。
つまり金曜ロードショーの日だ。
あの頃、僕はとにかく映画が大好きだった。もちろん映画館になんか行けないし、ビデオ屋に行く金もない。だからテレビで流れてくるロードショーは唯一の楽しみで、アナログ電波に乗ってやってくるアメリカからの最高の世界の中で、僕は貧乏イジメられっ子という自分の現実を一瞬でも忘れようとしていた。
スイッチを付けると、すでに映画は始まっていた。男たちがいきなり部屋に押し入り、ショットガンをぶっ放す。そしてビッチな母親を殺し、売人の父親を殺し、風呂場にいる生意気な娘を殺す。そこで一人の少女が階段の下からやってくる。自分の家の中で殺し屋達がいると気が付けば、その姿を見ても騒ぐことなく、彼女はまっすぐ部屋の奥へと向かい世呼び鈴を押す。そして牛乳を持ったまま、僕と同じように鼻血を垂らしながら、泣きながら言った。「お願い、開けて」
それからの二時間、僕はテレビの前から離れなかった。
母やが帰ってきたことも、親父がまだ戻らないことも、いつの間にか鼻血が止まって、ひざ元が血だらけになっていたことも忘れて、彼女のことを見続けていた。
恐ろしい殺し屋のレオンに鍛えられ、復讐を遂げようとする彼女は僕よりもずっと美しかった。銃を持ち、仇を取ろうとする少女。それを支えようとしたレオンと本当の親子のように、いや、それ以上の関係にすらなろうとすら姿すら、何もかもが輝いて見えた。
そして、自分の両親を殺した連中に一人で復讐を果たそうとする。あんなロクでなしの家族のために。
それから先のラストまで思い描いてはいるが、映画ファンとして批判だらけのブログをやっている以上、ネタバレだけはやめておく。安心してほしい。探偵時代、いや、それより前から様々な法律を破ってきた身だけれど、ネタバレ禁止の法律だけは一度も破ったことはないんだ。
それはともかく、僕はあのマチルダを演じたナタリーポートマンに一目ぼれをしていた。その強さ、美しさ、大人びてた何もかもに胸を打たれ、布団の中でも映画の内容を繰り返し思い出していた。
それから翌日、学校に行くとクラスでは翌日見た金曜ロードショーの話になっていた。それで先週、「グース!力をくれグース!」とへたくそなトップガンの物まねをしていたミヨシを見つけた。彼はいじめっ子のリーダーで、僕の鼻に石をぶつけた張本人。先週放送されたトップガンも観ていたようだが、今度は悪徳警官のゲイリーオールドマンのモノマネをしていた。きっとレオンを見たのだ。
そこで僕は、はじめて彼らに自分から話しかけようと思った。
今まではイジメられてはいたが、あの映画の話をすればきっと仲良くなると思った。そうすればイジメも止まるし、友人だってできるかもしれない。
それで机を立ち上がり、彼らのもとへと歩こうとすると、イジメッ子のリーダーだったミヨシは錠剤をのみ込むふりをしたあと、耳元を抑えながら「くぅうう!!」とドラッグを噛むシーンをやり、それを見ている取り巻きが笑う。
で、それを見た僕がどうしたのかというと、まず近くにあった分度器を取る。それからまたドラッグを飲み込むふりをする少年の後ろにたち、首をおもいきり刺した。
驚いて振り返ったミヨシはバランスを崩し、そのまま倒れた。血の出る首を抑えながら一瞬騒いだが、その頭を蹴飛ばすとすぐに黙った。それでも怒りがおさまらず、分度器を腹に向かってなげると、それがダーツみたいに刺さったのと同時に誰かの悲鳴が響き、我に返えって考えた。
僕は何をしているのか?
しかし、少し落ち着いてみれば、こんなことになった理由は単純だ。
あの映画で最高にムカついたはずの男がクソほど似ていなくて、腹が立ったから。
今思い返しても、それ以外何の感情は無いと、連れていかれた精神病院の医師に告げると、その医者は何かをカルテに書き留め、僕ではなく、母親の顔を見て言った。「発達障害の可能性があります」と。
だが、別に僕には感情が無かったわけじゃない。不思議なほどあの時は怒っていたが、その理由が誰にも理解されなかっただけ。それに、今思い返せば、彼女があの殺し屋達のもとへと向かった時の勇気を、僕も受け継いだのかもしれない。
だから、ミヨシはやられて当然だった。
僕が何の障害かはどうでも良かった。考えたのは、不幸は誰かのせいになんてできないということ。したとしても、それが自分のせいなのだと、痛みと共に誰かに気が付かされる。僕に首を刺されたミヨシのように。
だが、そのあと罪悪感に襲われたのも間違いじゃない。何も感じなかった時間はすぐに終わったし、正しいことをしたとは今でも思ってもいない。あの後精神科に連れていかれた時も、ミヨシの家に謝りに行った時も、戻れるものならミヨシと映画の話をすれば良かったと思った。それに、無言でイジメッ子を病院送りにした僕はクラス1の超危険人物となり、イジメどころか誰からも話しかけられなくなって、僕の不幸も自らの責任で悪化した。
確かに寂しかった。それからパソコンにはまり一人の時間にも慣れた。それにビデオ録画したレオン完全版もあったし、釣りもあったんだ。
特に釣りは一人で楽しめることが多かったから、友人は気にせずにすむ。だからなんとか生きれる設備は整ってた。というよりも、今思えばそれは生活の糧にすらなっている。僕にとって、映画と、釣り、そしてパソコン、そしてナタリーポートマンはその後の人生の中心なのだ。
もしかしたら、エリーはそのことを知っていてナタリーになったのかも思った。さっき僕の脳みそを除いているときに、その映像の一部を見たのかもしれない。なにせ、魚人の遺伝子を互換したと言っているが本当の所なんてわからない。嘘の可能性だって高い。僕に何かをやらせるなら、それくらいのサービスは平気でやるだろうし、僕ならそうする。
だが、目の前で自分が名女優だと言われてウキウキしている魚人を見ても、その兆候は察知できない。脳みそがイジられているなら、表情だって作り物なのだから、何一つわらからない。
それに、こんな場所にいる理由だって。
「ごめんなさい、でも続けなくちゃいけないわ」
僕の思考を遮り、エリーはすまなそうなにまゆを顰めてほほ笑む。そんなに悪いと思うなら、さっさと僕をここから出してくれれば良いのに。
「この過去の黒歴史をほじくりかえす拷問で、僕があんたを手伝うと思ってるのか?」
焦りと不安をはねのけようと、僕は皮肉ぽく笑ってやった。エリーは指先を回して新たなブラウザを出現させながら答える。
「そうよ、それ以外に方法はないしね」
「いやあるだろ、僕を一度家に戻すとかだよ、それに具体的な話を聞いてもいないんだから、まずは先に話をしてくれたら、それから家に帰って、妻と話しをして」
だが、エリーは再び苦笑いを浮かべ僕の目を見据えた。
「私は人間の研究が専門だからわかるのよ」
指先が僕を刺すと、目の前に半透明のスクリーンが現れる。
「あなた達が特に優れているのは、嘘をつく能力だって」
僕の目の前に現れたものは、文章じゃなかった。
写真。
それも、僕の妻のものだ。
「佐奈田明美」と、エリーは悲しそうな笑みを崩さず、椅子から立ち上がる。「貴方の妻で年齢は29歳、結婚したのは2年前」
いよいよまずい。
妻のことまで調べられているとなれば、この魚人がすることは一つ。僕は間違いなく脅される。しかも逃げようがない。
だが、思わぬことに、ここで僕の頭は一気に集中しはじめた。昔に戻ったみたいに。気が付いてはいけないやつらが、この事態に気が付いてしまった。
僕の頭の中にはネズミが住んでいる。
いつの間にか住み始めた奴らを最後に見たのは4年前。僕が探偵をやめた時。それ以来、奴らは一度も現れてはいない。臆病で、残忍で、常に飢え切った薄汚いやつらは、僕の脳の薄暗い奥底でとっくに死んでいたはずだった。
しかし、僕の脳みその暗闇から、一匹、一匹とみすぼらしい灰色のけだものが姿を現しはじめた。あさましい口をヒクヒクさせながら、怯えた顔で、みな一様に次々と出口に向かって迷路を走りはじめた。ここから抜け出すために。
「現在は彼女と貴方は生活しているけれど、貴方が以前何をしていたのか、彼女は知らないのよね」
ほらきた。
だが、僕の頭はもうエリーの話を聞いてはいなかった。ここから先の展開は読めてる。逃げなければ。この部屋の出入り口はどこだ?
「何いっているんだエリー、当然しってるさ」
僕はそしらぬ態度で答えたが、ただの時間稼ぎにしかならないのはわかっていた。緊張で喉が渇きはじめ、目が泳ぎはじめていた。けれど、頭の中のネズミは止まらない、泳ぐ視線は知らず知らずに見知らぬ室内をみまわし続け、やっぱり出入口当たらない。それなら、エリーが操作していたあのコンソールはどうだ?
「彼女は貴方のことを、未だにただの探偵だったと思ってる。それも心の傷ついた、釣りが好きなだけの哀れな男だって」
「間違っちゃいないだろ」
「そうね、確かに、貴方が全うな探偵だったかどうかは、彼女自身気にもしてないわ。でも、さすがに貴方の過去の犯歴を見たらどう思うかしら」
「どう思うもなにも、知っているよ、妻は」
僕の言葉を無視してエリーは話を続けるが、僕もエリーの言葉は無視しているのでおあいこだった。話はもちろん聞いているが、心はとっくに死んでいる。だから脅しもきかない。嘘だって平気だ。
頭の中では、ここからの脱出方法を考えるためにネズミが動きまわっていた。焦げたホットドックに手足が生えたような土色のネズミ達は走り、この部屋のことを逐一教える。エリーの顔の横に見える床から突き出た球体は、おそらくこのラボの端末か何かだ。だが、それを操作してわざわざ出入りしているわけがない。以前どうやって彼女は扉を開けていた?探し出せ、今すぐに。
「そうね・・・本格的な初犯は2004年、あなたが探偵なった翌年」
エリーはうつむく僕に、遠慮がちに声をかける。
「この時には秋田県の裁判所のサイトに不正アクセスを掛けた疑いがかけられてるけど、調査の上提訴を免れてるわね。取り調べを受けて、調書も取られてる、けど、これも貴方がしっかりと犯罪を犯しているのは知ってるわ」
「エリー、やめてくれよ、僕はそんなことしていない」
頭の中のネズミに指示を出しつつ、僕は苦笑いを浮かべていた。魚人の姿と、取調室で、老齢の刑事が僕に警察への推薦状を差し出した姿が重なって邪魔だ。思い出せない。昔だったらもっと簡単だったのに。ネズミはまだ迷路で迷っている。
「騙された刑事は秋田の所轄だったし、当然あなたのやることには疎かった、だから、グーグルのクロールが残したクッキーに2週間期限の判決の公開内容が残っていたなんて出まかせも簡単に通じたし、あなたがサイトでの判決の公開をやめるべきだという助言まで鵜呑みにした」
僕の反応をうかがうように、エリーはそこで口を閉じる。
そこでようやく、頭の中のネズミの一匹が顔を上げ、甲高い悲鳴を上げた。見つけたのは彼女が扉のほうを一度も見なかったこと。そして、強気のはずのエリーが罪悪感を抱いていること。チャンスだった。僕は視線は合わせず、うなだれたままでいるべきだと悟る。優越感を与える。その結果、罪悪感で溺れるように。
「これで味をしめた貴方は、さらに罪を犯す、法律をおかせば、簡単に仕事がすむとわかったのかしら」
「エリー、探偵ごっこはやめたほうが良いんじゃないか、僕の過去なんてロクなもんじゃない」
「そんなつもりはないの、必要だから聞いてもらっているの、まだ見つかってない余罪でいえば、民間企業へのハッキング10数回、特に人材派遣会社が多数。それと行政施設、特定個人のメールサーバーへの不正アクセス。それだけじゃない。住居不法侵入、親書開封罪、それにえーっと暴行?あなたってそんなタイプなの?ひどいわね」
「何もやってないし、僕は普通に探偵やってただけだよ」
白々しいとはわかっている。
けど、今は関係ない。
僕は確かに悪徳探偵だったがなんだ?それもとんでもないレベルだとしても、だからなんだというんだ?そのトラウマにはいつでも悩まされているし、彼女に言われるまでもなく、ここ数年分のセルフ・フラッシュバックで見慣れてる。
それに今、僕はあれだけ嫌っていた当時の自分に戻りつつあった。心は死んだように脈を打っていないのに、脳みそだけは嫌にさえわたっていて、幾つも灰色のネズミを出口を辿っている高速の世界にいる。普通なら吐き気がするようなことすら、なんだってやれてしまう気がしている。僕自身にシッポが生えてきたような感覚。それを隠しつつ、エリーと話ながらこの世界からの脱出方法を真剣に考えていた。目を閉じて、記憶を整理する余裕が生まれたおかげで、次第に映像が浮かびはじめ、懐かしい感覚に脳の血管が脈打ちだしたのがわかる。あと少しだ。
「いいえ、それに極めつけが、警官の買収による犯罪歴の流出、これはひどすぎるわ」
「なんのことだかさっぱり」
そうでもかった。
集中しきったところで、彼女が壁の横を触ったのを思い出した。確か左側、高さは150㎝程。突起物も何もない壁の一部だけれど、そこがセンサーになっている。
その頃には頭の中のネズミは出口への次々と探り当てはじめた。一匹が壁にあたれば、それを他のネズミに伝える。可能性の連続をひたすらに消去法で消していき、最後の残り一匹が出口へと走しり、新たな可能性を伝えた。
果たして僕が端末に触れたところで反応するのだろうか?さすがに疑問だ。普通セキュリティがあるものだし、それはこの世界だって原則はかわらないはず。だったらまず、エリーに扉を開けさせるべきだが、それが無理なら自分で試すしかない。
「法律に関して疎いんだ、わからないよ」
わかったことは、次に飛び降りる場所を探すことだ。最初につれてこられた時、確か僕はエリーに突き落とされて現実に戻れた。ならどこでもいいから、飛び降りることさえできれば良い。
「知ってるわ、少なく見積もっても、14年は固い」
「随分前の話だし覚えていない」
そういえば僕のタックルは取り戻したい。僕がこの世界に来た時にきっとエリーか、それともほかの魚人が僕の道具をしまったはずだ。だが、以前戻った時には自動的に帰ってきていた。なら人間や魚人以外も、ものだけを行き来できる機能があるのかもしれない。
別のネズミの声がした。顔をあげるとエリーが両手を脇の下に入れている。人間に見せるプログラムがみせる幻影が確かなら、彼女に次第に迷いが出始めている兆候だ。
「わかってるわ、でも仕方ないの、どうしても貴方に協力してほしかったから」
「協力って何をだよ」
僕はまだエリーを見れなかった。
その代わりに、自分の足元を見た。靴を脱がされた裸の足を見て不安になる。全速力で走るとしても、久しぶりのことだから。
「僕を連れてきたのは、魚人の世界を救うためっていうけど」
「その理由を聞きたい?なら、まずはそれから」
「当然だろ、脅すだけ脅してさあやってくれなんて、まるでテロリストだ」
指先を動かしてみる。こいつらの移動速度がわからないけど、全力で走ればそれなりにいけるか?というか、やるしかないか。
「それは随分ね・・でも、そう言われても当然かもしれないわね」
強気だが優しいエリーの声。だが、トーンが落ちていた。
顔を見たい衝動にかられたが、まだだ。ネズミはまだ出口を見つけていない。まだ確認しちゃだめだ。
「貴方にやってもらいたいのは、簡単にいえば・・・そうね、人探しよ」
「探すって、誰を」
大きく息を吸う音。きっとエラが開いているに違いない。人間とは違うが、これも緊張の証なんだろう。
「このネオテシオは、創世以来の危機に貧しているの。で、貴方に探してもらいたいのは、その危機から脱出できるチャンスを持っている者達」
「者達って・・・じゃぁ、1人じゃないってこと?」
「じゃないわ、人間が1人、それと魚人が1人」
さすがに限界だった。
僕はエリーの顔をちらりと覗く。幸いエリーは僕のほうを見ず、口元を強くつぐみながら、空中のスクリーンに魅入られていた。
「そいつらは、ええっとネオテシオ?っていったか?それにどんな関係があるんだ」
頭の中のネズミも動きを止め、みんなエリーのことを見ていた。少しだけ後悔したが、気になるものは仕方ない。それに、だからといって脱出をやめるつもりもない。
「ネオテシオには、今大きくわけて2つの思想が存在するの」と、エリーは睨んでいたスクリーンを指ではじき、反転させ僕に見せる。
目の前に現れたのは、日本語の文章。”ウェンカムイが首都で新たな犠牲者を出す”とある。
「これはネオテシオのニュースよで、首都は今私達がいる場所。ニプクと呼ばれているんだけど、このニプクがネオテシオ全体の政策をになているの」
エリーの言葉が終わらないうちに、空中の文章がスクロールし、今度は写真がでてきた。
「ニプクではいま、こういう事件が起きているの」
現れたのは爆発した建物だった。どうやら、写真に対しては僕に施された擬人化プログラムも聞かないのか、周囲に黒い制服を着た魚人たちが写り込んでいる。
2枚目に現れたのは、カプセルに入れられた魚人。僕がさっき入っていたような白いたまご型のものが、道路の上を移動する最中なのだが、透明になった卵の上部から、血まみれになり顔の半分が無くなった白い魚人の姿があった。
「なんだよこれ」
酷いものを見たのは確かだが、それよい、あまりに沢山の情報に混乱した。エリーは苦々しい顔でスクリーンを操作し、別の写真を見せる。再び現れたのはグラフ、この世界も日本語で作られているから助かるが、”首都支持率アンケート”とある。
「このネオテシオでは、首都ニプクを支持する人々のおかげでなりたっているの。そもそも私達は数はすくないし、住める場所も広くはない。現在ネオテシオに住む魚人達・・・ここではウルイと呼んでいるけど、その数はおよそ10万ほどしかないわ」
見せられたグラフは、10万人のネオテシオの魚人に対して行われたアンケートのようだ。前半部分の難しい言葉はよくわからないが、グラフは6割が首都支持層。残り4割が反首都支持層と書かれている。
「10万人のうち、今までは9割以上が首都支持層でこの世界は維持されいてのよ、というより、そうじゃなくちゃこの狭い世界は維持できなかったから、けど去年から急激に反首都支持層が増え始めたのよ」
その後、ふたつ目の文章が中で入れ替わり、不明瞭な事件の件数が急激に増えていることを示している。右肩上がりに伸びていくグラフ。まるでビットコインの高騰みたいだ。
「事件を起こしているのは、ネオテシオの政策に反対する思想を持つ人間、首都への不満が増えるにつれ、事件の件数も増えていくんだけど、そのうちに彼らの事件も凶悪化していったわ」
「それがウェンカムイっていう連中なのか?」
「便宜上私達が名付けたのよ」
「じゃぁ、何もかわかってないのか?」
「くやしいけど、そのとおりよ」
エリの反応は言葉通りだった。目をつむり、首をふり耳を触る。
「ウェンカムイ達は次第に数を増やしているけど、一体どんな組織なのか、何処で何をしているか正確にはつかめていないわ。彼ら犯行声明1つ出さないし、目立つことはない。ただ魚人を首都で殺すだけ」
「そいつらを僕に見つけだせって?」
「いいえ、そのリーダーの居所を探して欲しいのよ」
ばかげてる?付き合って聞いただけ損だ。
「わけがわからないよエリー、いや、はじめっから何もかもだけど、これだけはわからないと言わせてくれ、なんで僕が魚人の犯罪者を探し出せるんだよ?僕は人間だぞ?いまさっきこの世界がネオテシオだって知ったばかりだ、つまり生まれたての赤ん坊みたいな、いや稚魚か?まぁどっちでもいいけど」
「もちろん、だからもう1人のほうを先に見つけ出して欲しいのよ」
そういってエリーはスクリーンに再び写真を出した。
「ウェンカムイの正体はよくわからないけど、殺された魚人の1人がある名前を持っていたのよ。これよ、みて」
写真には死んだ魚人が釣っていた。何かで体を真っ二つにされている
「そんなもん見せるなよ・・・魚人の2枚」
「この手の部分に、名前があるのがわかる?」
「コガネイ・リョウタ?」
そう、明らかに人間の名前よ。
「ユーチューバーか誰かじゃないのか?」
「この世界ではインターネットを通じて人間と接触することは確かに禁じられていないけれど、直接的なメッセージを送り合うことは出来ないのよ。SNSも不可能。ブログもできない。できるのは匿名での書き込みのみ。それも返信はできない。もちろんこの世界の存在を外に伝えることもね。セキュリティがメールや通話などの通信を不可能にしているの」
「それにこの名前で色々と調べてみたけど、誰1人ヒットしない。魚人が嫌いそうな釣り人もね」
「じゃぁこの名前は?」
「ウェンカムイの中に、人間がいるってことよ」
「まじかよ」
「その人間を探しだしてほしいの、それがウェンカムイの正体を暴く唯一のチャンスになるかもしれない」
「けど、そいつは僕と同じように魚人の世界に紛れ込んだままじゃないのか?」
「それもありえるけど、私達はそう考えてないわ。人間は簡単にはこの世界に入れないし、もし入れたとしても、普通に生活はできない」
「つまり、地上にいるってのか?」
「そう、それを貴方に探して欲しいの」
エリーが身を乗り出し、僕は体を引いたが、魚人の椅子の背に遮られる。
「まってくれ、俺が元探偵だからって、名前1つじゃさすがに無理だろ、あんたらの技術を使って見つからない人間っていうなら、当然偽名に決まってるだろ」
「でも、貴方ならできるはずよ」
「わけがわからないこというなよ」
「あなたはとても嫌っているようだけど、探偵としてはきっと最高だったはず」
あの世界にあるのはクソか、もっと酷いクソだけで、僕は更に酷いクソだった。
「わるいけど俺じゃ無理だ、いや、探偵だからっていうか、誰だって無理だ」
「いいえできるわ、あなたしかいないのよ」
「なんでだよエリー・・・なんで僕なんか・・・」
もうやめてほしかった。期待なんてして欲しくない。エリーは真っ直ぐ僕を見ている。この表情がただのプログラムだとしても、その向こうの魚人はどんな目をしていようとも、この胸の苦しさが変わるとは思えない。
だから逃げ出すんだ、なんとしても。
消したい記憶は続く
コメント
引き出し多いね。続きが楽しみ。
QDOさん>ありがとうございます!なんとか修正くわえつつロクでもないヤツらの釣り小説を完成させていきたいと思います!