はいどうもαトラウトです。
釣りなんてやっている場合じゃないってわけでね。
まぁ仕事も転職もうまくいってません。
もう釣りなんかしているわけじゃないのにこのブログを書いているってわけは、笑えるほど釣りがしたいわけです。
しかしそれよりも仕事をしてお金を稼がないといけない。
でも金があったら幸せになれるかなんて甘い期待を持つほどぬるい人生を送ってるわけでもない。金があったら幸せになれるわけじゃないし、別に幸せになりたいから金が欲しいわけでもない。生きたくて、今が苦しいから。呼吸ができるほどには楽になりたいから。ただそれだけの浅ましい願望のための仕事だ。
だからぁまぁ「人生なんてクソ」って言ってる。
「人生は素晴らしい」といいうのは、僕にとってはインスタにランチのデザートのせたあと、次の投稿に家の猫の写真アップするようなものであって、その枚数が多いかどうか。もしくはハートマークの数があるかどうか。それが幸せなんじゃないかなって思う。本当に。
ただ、この時代がそうなったってわけじゃない。
昔からういうものだと思う。昔はそれが服や靴や家しか無かったというだけで、幸福というのは可視化されないと意味がないと考えるのが普通で、幸せおすそわけ的なことを言い出す人間はまぁ昔から大量にいたのだ。
一方、おすそわけする懐もなければ、インスタに上げれるようなシーンなんて僕にはまぁない。余分に現金化できる通帳の数字も、可視化できる光景もないし、他人のインスタでイイネ押している場合じゃない。できるのはラパラミノー触っている時と自作ルアー作っている時位のもの。
と皮肉っぴく言ってみたけれど、それも違うかもしれない。
なぜなら今、頭の中にあるトラウトの姿がシナプスのコーディングによって出力され暗闇のタイムラインに溢れている。しかも僕が勝手にイイネを押している。その性能は10年後のインターネットの世界のようで、きっとこの先のインスタはこうなるんじゃないかというほど。
僕の脳裏のタイムラインははっきり言って最先端だ。
本物のインスタ投稿すら見るまでもないほど詳細に記されている頭蓋の中のディープウェブの記憶。帽子の先を切る風の音、ウエーダーを履いた足の冷たさ、手に伝わるヒットの衝撃までセットでくっ付いていて、とにかくそこにイイネを押すと、人生における真冬の辛さすらも押さえこんでくれている。
道北の氷はまだ厚い。
氷の下のトラウト達は今頃どんな状態なのだろうかと考える。これは脳裏のインスタにはない、本当の想像だ。
彼らは息ができているだろうか?
僕は今、この資本主義に支配された空気の中で大して息はできていないが、コンクリート壁のような氷の下で生きている彼らも似たようなものかもしれない。
ただし、彼らはそれでも春を待っている。
金が欲しいのと、餌が欲しいのはまるで同じで、べつに彼らだって幸せになりたいわけじゃないし、インスタに「3月の川虫まじやばい」とかタグ付けてのせて誰かに幸せおすそわけしたいとか寝ぼけたことは思ってない。この時期には餌もとれずやせ細り、無駄に動くと減る体力の消耗を抑えているのだから、むしろインスタなんかしてる場合じゃない。
しかし、もいかしたら彼らもこの時期は脳内のインスタにある餌たちにイイネを押しまくっているのじゃないだろうか?
そうして記憶を頼りに耐え忍んだ後、春になれば彼らは餌にくらいつく。それも美しく幸せな光景だとか思ってない。待ち焦がれていた命を長らえるチャンスが目の前に現れ、ただ食っている。
だったら僕も頑張らなくてはならない。
釣りを通してなにを学ぶのかなんて意識の高い話だが、そんなたいしたものでもない。この話は別に学ぶ以前の問題。底辺も底辺。生きることはとにかく醜いということを、ただ思い出しただけに過ぎない。
だからまぁ釣りに行きたい。
なにせ自然はいつもシンプルで、醜く残酷で、僕の人生と良く似ている。
その風景を良く見ない人間だけが美しく幸せだと言える。もしくは短い春の一瞬をスマホのカメラに収めた時だけかもしれない。僕の場合は給料日だが。
ただ、その一瞬を支えているのは醜さだ。
生きたいという醜さは大切だ。それは幸せよりも大切だ。金が無くて辛いという愚痴をもらしつつも、インスタには乗せられない僕だけの脳裏インスタでイイネを押すという浅ましい行為のおかげで今なお健在だ。
というわけで、春を待ち、釣りに行くため、魚たちの姿を思い出しながらこのひどい仕事を頑張ろうと思う。
ああ、やっぱり人生はクソだから、釣りがしたいんだ。
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